【姫路市概略】平成17年(2005)2月1日現在
人 口  約481,000人
世帯数 約179,000世帯
面 積  約274,000F

■「ヒメジ」名前の由来■

神代の昔、大汝命(おおなむちのみこと)は日頃から乱暴ものであった子の火明命(ほあかりのみこと)にほとほと手を焼いておりました。父神は考えあぐねた結果 、船で旅をしている間にどこかに火明命を棄ててこようと決めました。

さっそく船出し、まだ瀬戸内海であったこの辺り一帯にやって来た大汝命は、因達神山(いだてのかみやま*1)に船をつけ、火明命に山で水を汲んでくるよう命じました。命じられるまま火明命は船を降り、水を汲みに行きました。それを機に大汝命は船を出してしまいます。それに気づいた火明命は怒り狂い、風波を起こし、とうとう船は沈んでしまいました。

その時の積荷が落ちたところに14の小高い丘が出来ました。
琴が落ちたところが「琴神丘」。
箱が落ちたところが「箱丘」。
冑(かぶと)が落ちたところが「冑丘」、という風に。
そのひとつ、蚕子が落ちたところは「日女道丘」となりました(*2)。

蚕子は古語で「ひめこ」と呼ばれ、「日女道丘」は「ひめじおか」と読みます。中世には「日女道丘」は「姫道山(ひめじやま)」と、麓の村を「姫道村」「姫路村」と呼ばれるようになりました。
地名としての「姫路」という呼び方は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築き、城下町を整備した当時の文献に残っています。お城の天守閣からは、周辺に小高い丘が点在しているのがよく分かります。

*1 姫路市の北部、現在の八丈岩山と比定
*2「播磨国風記」より抜粋




■お菊さん■姫路フィルムコミッション様ご参考

姫路グリーンホテル立町」から徒歩5分ほどのところに「十二所神社」があります。この神社の境内に、浄瑠璃・播州皿屋敷実録を元に作られた有名な「怪談・播州皿屋敷お菊物語」の主人公「お菊さん」を祀っている「お菊神社」があります。 永正年間のこと、城主・小寺則職(こてらのりもと)の執権・青山鉄山(あおやまてつざん)が城の乗っ取りを計画していました。これに気づいた忠臣・衣笠元信(きぬ がさもとのぶ)は、愛妾のお菊を青山家に女中として送り込み、陰謀を暴こうとします。鉄山は永正2年(1505)、増井山(*1)での花見の宴で則職を毒殺しようしますが、お菊からの知らせを受けていた元信はそれを未然に防ぎ、則職は播磨灘家島(*2)へ逃れます。

一度は鉄山の謀略を阻止できたものの、結局は鉄山一味の計画は、小寺則職に個人的利害もあった浦上村宗(うらはみむらむね*3)の後ろ盾を得、則職を追放、主家の乗っ取りに成功をします。

その後もお菊は青山家に残り、龍野に逃れた元信に情報を密告していました。しかし、鉄山の家臣・町坪弾四郎(ちょうのつぼだんしろう)に気づかれ、それを盾に結婚を迫られますが、元信を愛していたお菊は頑なにそれを拒絶します。それに恨みを持った弾四郎に、鉄山は浦上村宗らを招き酒席を設けていた際、家宝の皿10枚のうち1枚を隠させ、お菊の不始末として責め殺して井戸(*4)に投げ込ませました。

それから、井戸の中から夜毎「1枚、2枚、3枚・・・」と皿を数えるお菊の声が聞こえ、9枚になるとすすり泣き、また1枚から何度も数えなおす、ということが起こる。  元信らにより青山一味を破り、再び城主に就いた小寺則職はお菊の死を悼み、「於菊大明神」として「お菊神社」に祀りました。 当時の社殿は、室町風の珍しい建築様式の神社でしたが、戦災で焼失し、現在の社殿となりました。今でも社殿にはお菊虫や木造などの遺物が祀られています。 現在では、お菊さんの命日とされる5月8日に「お菊大祭」が催されています。このお祭りでは『お菊さんに疑念をかけられたお皿はどのようなものだった?』と想像し、町の人達によって描かれたカラフルなお皿が境内に並ぶ「お菊さんの絵皿コンテスト」が行われます。

*1 姫路市の北部の山 *2 姫路の南西、瀬戸内海に浮かぶ島 *3 浦上氏:播磨国揖保郡浦上郷が発祥地の武家。 元弘・建武の争乱の際、足利側に属し戦功を収めた赤松氏の被官。 浦上宗村:三石城主。備前守護の赤松氏より守護代であったが、勢力は強大であった。 勢力回復を試みた赤松義村は姫路城主・小寺則職に浦上氏討伐を命じる。 これを迎え撃ち、宗村は栄元年(1521)義村を播磨室津に幽閉、暗殺した。 以後、播磨南部から備前東半に勢力を伸ばす。 享禄4年(1531)、細川高国と共に摂津中島に出陣したが、天王寺へ敗退。 細川晴元に攻撃されて討死した。 *4 姫路城内・上山里(かみのやまさと)の広場にある「お菊井戸」


■続・お菊さん■

播州皿屋敷の浄瑠璃が初上演されてから50余年後の1795年、姫路城下に奇妙な虫が発生しました。ちょうど人が後手に縛られて吊り下げられたようであり、お菊の怨念が虫と化したものであるとして、大騒ぎになりました。この虫はジャコウアゲハのさなぎで、昭和の初め頃まで発生したそうです。ジャコウアゲハは、平成の世になった1989年、姫路市の「市の蝶」に指定されました。


■「姫路グリーンホテル坂元」脇の石垣の謎■

国道2号線(東行き一方通行)を挟んで「姫路グリーンホテル坂元」と反対側に長い石垣があります。 これは、姫路城の中堀です。そもそも姫路城は「内堀」「中堀」「外堀」の3つの掘りがありました。大正〜昭和初期に徐々に埋め立てられ、現在の国道2号線が出来ました。それを示す石碑が「大手前」の交差点の少し西にあります。明治末〜大正初期にかけて、堀の埋め立てを積極的に推進した当時の姫路市長・堀音吉さんのあだ名は「堀埋吉 (ほりうめきち)」だったそうです。


■中堀埋め立てこぼれ話■

姫路城中堀の埋め立てが行われた際の余談があります。 姫路城中堀の南部は「播磨国総社(*1)」があったため少し南にせり出した形状をしていました。その為、そのせり出た部分は解体し国道を敷設しなければなりませんでした。 日清戦争後、軍部拡充の為、明治29年(1896)に姫路に第10師団(*2)が設置されます。

その施設内に中堀の一部も組み込まれていました。国道整備は軍事上も必要であるとの認識はしているものの、師団としては敷設工事を容易に甘受できるものではありませんでした。第10師団は『国家的見地から見ても史跡保存をするべき』とせり出ている部分の中堀の保存を理由に、兵庫県に国道敷設の再考を求める文書を送りました。

これに対して、県は「中堀のせり出ている部分を迂回して国道を敷設すれば、将来姫路の幹線道路となる国道が曲線となってしまうため、師団の意向には添えない」と拒否します。姫路市も「中堀を解体して国道を敷設する方が費用軽減となる」と県の意見を後押ししました。

結局、師団は『我々一師団だけが史跡保存を訴えても無理』だとし、国道敷設を受け入れることにしました。*1 正式名称:射楯兵主(いだてひょうず)神社。姫路城東側に位 置。 中世は赤松氏が、近世江戸時代には姫路城歴代城主が信仰した神社。 播磨国の神様が全て祭ってある。 *2 現姫路市立美術館は明治38年(1905)師団の兵器庫・被服庫として建設されたもの。


■中堀埋め立てこぼれ話 Part2■

師団が国道敷設反対の真意は、敷設予定地に将校のクラブがあり、中堀の土塁上にあった樹木を庭木に見立て庭園を造っていました。それがなくなり、クラブ周辺の環境が悪化することが嫌だったと推測されます。

国道敷設に伴い、軍施設が北に移動することなります。移動受諾に際して、軍は「国道と軍施設間の一部空洞になる部分(*1)に民家などが建ち民有地になれば、風紀上好ましくない為、この区間の管理を県が責任持って行うこと」を条件のひとつにしました。しかしながら、この空地には市の管理不行き届きと戦後の混乱に乗じ、次々と民家が立ち、結局姫路市は昭和50〜60年(1975〜1985)に、莫大な税金を投入し、当該地の立ち退きを民家に要請することになりました。70年前の師団の心配が現実のものとなりました。

*1 現在の「城南小学校」校門近から東側付近


■大工の身なげ■偕成社「兵庫県の民話」より

慶長14年(1609)10月、8年の歳月と2500万人もの人手をかけ姫路城が完成しました。この大工事の責任者・棟梁の桜井源兵衛(さくらいげんべえ)は、この日、特別 に完成したばかりの大天守に妻“しの”と登ることを許されました。女性の身であったため、大天守へはもちろんのこと、お城の中へ足を踏み入れることさえ考えたこともなかった“しの”の感動は、言葉では言い尽くせないほどであったそうです。大天守からは、播州平野が見渡され、その彼方には瀬戸内海が光っていました。北側には「男山」が見え、中国山地が望みました。直径1メートルもある2本の大黒柱は地階から大天守まで立ち、“しの”が両手を広げても抱えることは出来ませんでした。源兵衛は「この2本の柱は、姫路城がどんな地震があっても大丈夫なように立てた」と“しの”に言いました。“しの”はその夜、夫の成した大偉業に感動し、その感動を源兵衛に一心不乱に語りました。

そのはずみに、つい決して言うまいと思っていたことをもらしてしまいました。 『今日は、素晴らしいお城を案内して頂いて、本当にうれしゅうございました。妻としてこんなに幸せなことはございません。ただ1つ、前から気に掛かっているのですが、お城が辰巳(東南)の方へ、少し傾いているのでは・・・。子供もそんなことを申しております。』 源兵衛は息を呑みました。



以前、お城の西南にある「ワ」の隅やぐらから大天守を見た際、大天守が東南の方へ傾いているような気が一瞬しました。が、すぐに「これだけ細心の注意を払っているのだからそうはあるまい」と、その考えを打ち消していました。姫路藩上げて城落成式が終わったある日、源兵衛は大天守から「のみ」をくわえ飛び降りました。“しの”以外はその真意を知る者はいませんでした。  東かたむく 姫路の城は   花のお江戸が 恋しいか 落城50年、やっと城の傾きを知った町の人達は、棟梁源兵衛の偉業と悲しい最期を謡ったそうです。


■大天守傾きの真相■

それは「昭和の大修理(*1)」のときに判明しました。お城の大黒柱の根元には花崗岩で出来た約100tの礎石が置かれていました。この重さは、石が置かれていた地盤の地耐力の約2倍であったと測定で分かっています。大天守の石垣は固い岩盤の上に建てられましたが、地階(*2)は岩盤の上に盛土をされた約4mの土層に建っていた為、石垣は沈まず、礎石だけが地盤沈下をする、「不同沈下」を起こしました。これが、姫路城の傾きの大きな原因です。
*1 昭和31〜39年(1956〜1964)に行われた修復工事。 大天守・小天守・それを結ぶ渡りやぐらに施された *2 石垣に囲まれている部分




■ゆかた祭り■

「姫路グリーンホテル立町」のホテルの自動ドアを出て、左(北)に直進すると、2つ目の右(東)角に小さな神社、「長壁神社(おさかべじんじゃ)」です。

元々、「長壁神社」の毎年の例祭には、多くの人が「ゆかた」を着ます。そのため、古来より「ゆかた祭り」と呼ばれています。この祭りは寛保2年(1742)5月、“風流大名”で名高い城主・榊原政岑(さかきばらまさみね)が始めたものです。榊原家とは、もちろん“あの徳川四天王家(*1)”のひとつ「榊原家」です。 政岑は、日光代参の希望が幕府に聞き入れられなかったことに不満を持ち、酒色におぼれて、江戸の遊郭・吉原へ通 いを始めてしまいます。

そして、「色婦録」にも艶名をうたわれた名妓・高尾太夫(*2)を身請けします。身請け費用として5,500両、当時の家老5人の年収に相当する額を支ったとも言われています。 太夫を姫路に連れ帰った政岑は、側室西の方として城内西屋敷(*3)に住まわせますが、当時倹約を推し進めていた時の将軍・吉宗に知れ、糾弾され、20代の若さで隠居を命じられてしまいます。

その時、子の榊原政永(まさなが)は7歳でした。姫路が徳川幕府。西の枢要の地であった為、姫路城に幼主は認められず、結局、榊原家は越後高田へ左遷されることになりました。 政岑は移封される前、姫路での最後の思い出に、何か永久に残しておくにふさわしい華やかな行事はないかと考えました。そこで、それまで武家だけのものだった「長壁神社」の例祭を町民にも解放し皆で楽しもう、と思いつきます。

 

 

この急な御布に町民は式服を調製する暇がありませんでした。そこで、政岑の許しを得て「ゆかた」を着、走馬(そうめ*4)の代わりに走馬灯を使いました。これが「ゆかた祭り」の始まりとなりました。  現在でも「ゆかた祭り」には多くの人手で賑わい、夜店の多さでも関西地区では指折りのお祭りとなっています。

*1 酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政のこと
*2 太夫:吉原の豪商・大名を相手にする最高遊女の名称。見識・美貌・教養を備え、芸事に秀でていた。
*3 現在の「好古園」
*4 古墳時代以前に中国大陸から輸入された馬はその貴重性故、神様の乗り物としてその走りを奉納されていた。


■榊原高尾太夫■

高尾太夫とは吉原の太夫の筆頭の名称で、代々襲名されたものです。 風流大名の榊原政岑に身請けされたのは、7代目の高尾太夫とされており、榊原高尾と呼ばれています。彼女は他人への思いやりが深く、気前の良い女性だったので、自分が花魁道中に着た着物を友人や知り合いに頻繁に与えた為、周りの人々から大層慕われたそうです。  政岑が越後高田へ下った際には、もちろん高尾太夫も共にしました。しかし、その後2年ほど、政岑は29歳の若さで死去してしまいます。もともと、政岑の左遷を自分のせいであるとの罪の意識にさいなまれてた高尾は、尼になり連昌院と号し、上野池の近くに住んだとのことです。